所在地 | 恵那市岩村町 |
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築城 | 16世紀初めか |
存続 | 16世紀~明治6年(1873年) |
比高 | 150m(藩主邸跡から) |
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標高 | 717m |
主な城主 | 遠山氏、秋山虎繁、河尻秀隆、 団忠正、田丸直昌、大給松平氏、丹羽氏、大給松平氏(分家) |
東美濃では最も規模が大きく、東海地方を代表する山城。霞ヶ城とも呼ばれ、女城主の城としても知 られる。近世山城では最も高所にあり、日本三大山城の一つに数えられている。俗に創築 800 年とい われるが、これは加藤景廉の遠山荘地頭補任にちなんだものである。永正 5 年(1508)に遠山頼景が 城山に八幡神社を造営しており、現在の山城はこ のころに築かれ始めたと考えられる。
天文年間の城主、遠山景前は東美濃を代表する国衆に成長し、遠山一族は 「岩村衆」 と呼ばれるよ うになった。 子の景任・直廉兄弟は尾張織田氏から室を迎えていたが、政治的には武田信玄に従属し て織田・武田同盟の紐帯となり、岩村城も東美濃の拠点として重要視された。
元亀 3 年(1572)に織田・武田同盟が破綻すると、岩村城は両者の争奪戦の舞台となった。翌年、武 田の部将秋山虎繁が入城したが天正 3 年(1575)に落城し、織田の部将河尻秀隆が城主となった。 豊 臣期には森忠政領となり家老各務兵庫が治めた。慶長 5 年(1600) 1 月、忠政は信濃川中島に転封 し、田丸直昌が岩村 4 万石を与えられて入部した。 しかし、直昌は、関ヶ原の戦で西軍について改易さ れ、翌年、徳川譜代大名大給松平家乗が 2 万石で城主となった。 以来、松平氏 2 代・丹羽氏 5 代・大 松平氏(分家)7 代と続き、幕末まで続いた。
城郭は、城山の山上に本丸、二の丸、曲輪、出丸、八幡曲輪を配する。北西山麓に藩主の居館(藩主邸 跡)が置かれる。 城下町はその西に展開しており、中央を流下する岩村川の北岸が武家地、南が町人地 となっ ている。
本丸は、二つの二重櫓と多門櫓があり、東と北に門が構えられていた。江戸後期には内部は空閑地で あった。東曲輪は、本丸の正門に面して出枡形的な機能を果たした曲輪である。
二の丸は、上下二段からなり、菱櫓などの櫓のほか、朱印蔵、御城米蔵、武器蔵、厩など藩の重要な施 設が置かれた。 また上段中央に方形の池があり、中島に弁才天が祀られていた。 本丸へは、二ノ丸門 を入ると 下段から上段を経て本丸埋門まで屈曲しながら進む、連続した虎口空間として機能してい た。
出丸は、本丸の南西にあり、太鼓櫓など二棟の二重櫓と三棟の多門櫓で厳重に防備されていた。多 門櫓の一棟は作事小屋とされており、出丸は平時には城のメンテナンスを担っていた。
八幡曲輪は中央を追手門から本丸・二の丸へ通じる道路が通り、その両側に侍屋敷や蔵屋敷、八幡神 社・神宮寺(薬師寺)、霧ヶ井が整然と並んでいた。二の丸門の正面には「橋櫓」と呼ばれる特殊な二重櫓 があり、櫓の二階と二の丸門の間に帯曲輪をまたいで廊下橋が架けられていた。追手門から藩主邸ま では藤坂と呼ばれる急な坂道で、両側には八幡曲輪と同様に大区画の侍屋敷が配されていた。
「追手門は城下町から見上げた正面に位置する。枡形門で城内に入るには、前面の堀切に架
けられた畳橋(床板が固定されておらず、畳をめくるように外すことができたという)を渡
って入る。脇には城内唯一の三重櫓が構えられており、天守の役割を果たしていた。」
岩村城は、近世としては数少ない山城であるが、先行する戦国期の縄張りに規制されることなく普請 されている。近世城郭として一つの到達点を示すものだろう。
戦国期の城郭の主要部分は残っていないが、近世の整備から外れた山腹の尾根筋には堀切や曲輪が 残っている。周辺の山城の主郭に匹敵する規模の曲輪もあり、規模の大きさがしのばれる。
明知鉄道岩村駅から岩村歴史資料館まで徒歩20分
【駐車場から本丸まで約25分】