恵那の山城の歴史Ena City Tourist Castle’s History

元亀3年(1572)岩村城の戦い ①

遠山一族(岩村衆)を率いる景任・直廉兄弟は、武田信玄を後ろ盾としてきました。ところがこの年、2人が相次いで病死すると、織田信長が家督継承に介入し、一族を調略して味方に付け、10月に四男坊丸を景任の養子として岩村に送り込みました。翌月、反発した岩村城の遠山七頭は、織田勢を城から退去させ、単独で武田方に復帰しました。これに対して信長は、12月に明知や小里など東美濃の織田方国衆に岩村城を攻めさせますが、28日に上村(上矢作町)で武田方に大敗し(上村合戦)、失敗に終わりました。翌年、武田24将の1人秋山虎繁が岩村城に入り城主となりました。

天正2年(1574)明知城の戦い

1月27日、 武田勝頼は、元亀3年(1572)に失った遠山領の回復を目指して岩村城に進出し、一夜城(明智町杉野)に陣を敷いて織田方の拠点明知城と串原城(大平城)を包囲しました。これに対して信長は、嫡男信忠とともに出陣し、2月6日に神篦城(瑞浪市)に入ります。そして、明知を一望する鶴岡山に陣を構えて、救援の準備を進めました。ところが明知城では、飯羽間友信が城内で謀反を起こし、間もなく落城してしまいました。信長は遠山領の防衛を諦め、神篦城に河尻秀隆、小里城(瑞浪市)に池 田恒興を置いて、岐阜へ撤退しました。

天正3年(1575)岩村城の戦い ②

長篠の戦いに大勝した信長は、嫡男信忠に秋山虎繁が守る岩村城の攻撃を命じました。信忠軍は、水晶山に陣を置き、遠山領内の要所に陣城を構えて、兵糧攻めにしました。半年間にわたる籠城戦の末、城方は11月21日に虎繁以下の城兵の赦免を条件に降伏・開城しました。 しかし、信忠は約束を反故にして虎繁と下伊那の部将を捕らえ、長良川河畔で磔にしました。また、遠山七頭をはじめ城内に残った 将兵も皆殺しにされてしまいました。虎繁の室となっていた信長の叔母(女城主)もこのとき処刑されたと伝えられます。

東美濃戦国史年表