信濃侵攻を本格化させた武田晴信(信玄)は、天文23年(1554年)に下伊那を制圧し、東美濃と直接領土を接するようになりました。
南の三河には駿河の今川義元が進出し、天文18年(1549年)織田方の拠点安祥城を陥落させて覇権を握りました。しかし義元は永禄3年(1560年)に桶狭間の戦で敗死し、従属していた松平元康(徳川家康)が自立していくことになります。
尾張は織田信秀の死後混乱状態となりましたが、子の信長はこれを克服し、桶狭間の戦で今川の脅威を一掃して国主の地歩を固め、永禄6年(1563年)に美濃侵攻を本格化させます。
美濃では、斎藤義龍が長良川の戦で父の道三を敗死させ、永禄2年(1559年)には幕府相伴衆に列して、名実ともに美濃国主の地位を固めました。ただし、その勢力範囲は、東は可児郡に留まっていました。
このように、東美濃は複数の大名がにらみあう国境地帯と化していました。
こうした地域を「境目」と呼びます。
大名間戦争の多くは境目の争奪戦として展開し、境目の国衆は周りの大名と交渉し従属と離反を繰り返しました。
東美濃の国衆も、家の存亡をかけて武田信玄や織田信長と対峙し、有事に備えて山城を構えていたのです。